LAWRENCE JENKIN SPECTACLE MAKER|ローレンス ジェンキン スペクタクル メーカー 誕生まで〜前編〜
09.10.2014
Lawrence Jenkin Spectacle Maker
穏やかな笑みを浮かべる彼、lawrence jenkin(ローレンス ジェンキン) はイギリスの眼鏡史において重要な役割を果たしてきた人物である。
この写真はブリンクバイヤーの荒岡が十数年ぶりに彼と再会した時に撮影したもので、現在71歳という高齢ではあるが、なんと今年、念願の自身のアイウェアブランドをスタートさせることとなった。
今回は、そんな彼のここに至るまでのヒストリーを追っていきたい。
まず彼の原点には、1882年創業のイギリスの眼鏡ブランド、Anglo American Optical(アングロ アメリカン オプティカル)がある。
1943年、まだローレンスが子供だった頃、その権利をローレンスの父・Arthur Jenkinが購入する。
青年となった彼も、アメリカで数年オプティシャンとして働いた後に27歳で父の会社で生産に携わるようになり、自身のコレクションもスタート。のちにオリバーゴールドスミス、カトラーアンドグロスと並んで、イギリス3大ブランドと呼ばれるようにまで成長するが、1970年代までは、イギリスで取扱いがあったのは、なんと1店舗のみだった。
その唯一のショップが、『Cutler & Gross|カトラーアンドグロス』。70年代も半ばになるとイギリスでの取扱店も増え、アメリカやドイツ、ベルギー、オランダの眼鏡店でも販売されるようになり一躍有名となった。
ベーシックなデザインの他にも、彼はこんな遊びのきいた作品も数多く残している。
五輪のマークや、レンズが2羽の白鳥の形をしたもの。
その発想はどれも驚かされるものばかりで、道具として使われてきた眼鏡のイメージを大きく変え、イギリスはもちろん世界的に大きな影響を与えた。
80年代に入るとローレンスはカトラーアンドグロスの創設者であり、親友のTony Grossと一緒にロンドンに小さな眼鏡店をオープン。
そして1985年に『Anglo American Optical』の社名を、当時のファッショナブルな言葉 “アイウェア” を取り入れた、『Anglo American Eyewear(アングロ アメリカン アイウェア)』へ変更。
様々な影響を眼鏡業界に残して一時代を築き上げたローレンは、1996年、当時53歳でデザイナーを引退してしまった。
まだまだ彼自身のブランド『lawrence jenkin spectacle maker』の誕生にたどり着くまでは、語りきれないエピソードが数多くあるので、続きは後日の後編にて。